小心者でも言いたいことがある。~公務員として働いていましたが、うつ病になりました。~

地方公務員として働くアラサー腐女子。典型的パターンでうつ病を発症してしまう。悩み藻掻きつつも幸せを掴みたい。日々の奮闘をまとめます。

「大変」の押し付け合い

こんにちは。中瀬一菜です。

今日はうつ病になったきっかけの事案と絡めて、ふと思いついたことをお話します。

  

 

1 現状はこれだ!~どいつもこいつもクソ、ワシもな!~

わたしは公務員で、上の立場の人間と、下の立場の人間の間で仕事をしていました。

上下といっても、職名で分かるような身分差のようなものではなく、学校の教師と生徒のような感じです。

 

担当していた仕事は、そもそも制度自体が比較的新しい上に、直近に法改正があったりと、これで安心という基盤・マニュアルはありませんでした。いや、マニュアルはないと駄目だと思うんですけど…ありませんでした。

こんな状態の仕事ですが、専門性はかなり高く、毎日専門書や法律を読んでいました。

この時点でなんとなく漂うブラック感ですが、そこは置いといて…

 

最初は仕事をこなすのに精いっぱいでなにも考えられず、昨年の実績を見て、今年の書類やなんやかんやを作って提出することしかできていませんでしたが、慣れてきたころにちょっとずつ疑問に思い始めました。

 

上の立場の人間からの指示が、明らかに杜撰なのです。

提出する書類の細かな指示が抜け落ちているのは当たり前。おかげさまで、うんうん頭をひねって行間を読んで解釈するなんてことは日常茶飯事。そもそも書類自体の差し替えも頻繁にありました。社会人なら気を付けるべきケアレスミスも多かったように思います。質問をしたところで回答はすごく遅くて、「~だと思いますよ」と推測で物を話す始末。←社会人なら敏感になるところですよね…

 

という感じなので、下の立場の人間からすれば、いい加減にしろ案件です。

ですが、下の立場の人間も、杜撰です。

締め切り破りは当たり前でした。自身の業務の範囲を把握しておらず、明らかにわたしでは手に負えない範囲の所を、相談されてしまうこともありました。透けて見える心理は「中瀬がいるから、多少間違っても大丈夫」です。毎年同じような書類を作成しているはずなのに、多すぎる誤記入…頭を抱えました。

 

ということで、わたしは上と下に挟まれて、フォローをしてまわっては疲弊し、前任者はまったく当てにならないことも重なり、うつ病と相成りました。

今思えば、ある程度突き放してしまえばよかったのにとか、上司に前任者のことをチクってやればよかったのにとか、いろいろ思いつきますが…

 

 

2 わたしの抱えるべき「大変」

そこでふと思いました。

当時のわたしは、きちっと仕事が済むことが最善で、そうなるためなら労力は惜しまないという謎の自己犠牲感を持っていましたが、その労力とは、本来わたしが抱えるべきものだったのだろうか?

 

提出書類の不備は、上の立場の人間が考えること。

締め切り厳守や誤記入防止は、下の人間が考えること。

…はっきり区別はつけられないですけどね。

わたしは、彼らが負うべき「大変」を押し付けられたのではないか?

きっと、ハイハイと応じるのではなくて、抵抗が必要だったのではないか?

ということは、人の抱える「大変」は、他人に気づかないうちに乗り移ってしまう、そういう性質なのではないか…?

なんとなく、そう思うようになりました。

 

例えば。

誰かに急なお願いをするとき。その誰かからちょっと気を利かせて貰ったとすると、そのちょっとの気遣いは、わたしが抱えるべき「大変」ともいえる。

PDFでいいですよ~といっていたけど、Excelファイルまで用意してくれた、とか…

これは良い意味での「大変」の移動だけれど、きっとこういう感じ。

 

 

3 「大変」と「余裕」

でも、わたしだっていつだって誰にだって気を遣っていられるわけじゃないし、誰かに甘えてお願いをしたりすることだってある。

良い意味での「大変」の移動ではない、その逆だ。

他人に自分の「大変」を肩代わりさせる。…職場の上下の人間のように。

 

こういうとき、なにが原因かというと、「余裕」だと思う。

親切をしてあげられる時は、時間や体力やお金やその他諸々が満ち足りていて、親切をすることで代償となる何かがあったとしても、困らないからできるのだと思う。

つまりは、「余裕」があるということ。

余裕がなければ、人は自分のことで精いっぱいになるし、キャパシティーをオーバーしてしまえば、自分一人ではどうにもならなくなる。

こういう「余裕」がないとき、自分の負うべき「大変」を手放さざるを得なくて、誰かに肩代わりしてもらわなければならなくなる。

「大変」と「余裕」はこういう関係かのかもしれないと思います。

 

だから、わたしが代わりに背負ったと思われる「大変」は、上下の人間が負いきれなかった「大変」の蓄積で、「余裕」の無さの表れで、わたしは病気になったけど、誰も恨めないなと思うのです。

わたし自身に、その「大変」を肩代わりしないで、彼らに戻すという抵抗はできた。その抵抗をせずに受け取ったということは、「余裕」があったということだから。

きっとこういう綺麗な抽象論が当てはまらないようなそもそも性根の悪い奴はいる。けど、それでも、性根が悪くなるだけ「余裕」がなかったとも言えるわけで。

 罪を恨んで人を恨まずというか、なんというか…

 

わたしは自分の「大変」をしっかり自分で抱えたいし、「余裕」が無くて抱えられない時は他人に甘えて肩代わりしてほしいし、他人の「大変」を抱えられるような「余裕」を持ちたいし、でも「余裕」がないときはハッキリ大きな声で拒否したい。

要は、自分の声を大きく上げたい。

ノーが言える人間って、ホウレンソウできる人間よりすごいと思うなぁ…

 

…とはいえ、件の上下の人間には、ちょっとは自分の仕事しろよ!事情あるんだろうけどよ!ワシ病気になったんやで!と、一言モノ申したいところではあります。

 

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書いた人 中瀬一菜(なかせ・ひいな)
うつ病が原因で退職した元公務員。未婚・アラサー・障害者。
うつ病があっても自立した生活を送るために日々奮闘中。
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